化学メーカーでの研究者、特許事務所勤務、化学メーカーでの知財勤務(設立準備業務を含む)を経て、フリーランスの特許翻訳者として独立。
その後弁理士資格を取得した変な経歴の持ち主です。
(でも、これら全てが今の私に役立っている!)
ちょっとわかりにくい「化学・バイオ」分野の、特許を翻訳を通じて、わかりやすく伝えやすくするお手伝いができればと思っています。
生年月日 | 1973(昭和48年)2月26日 |
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血液型 | B型 |
出身地 | 大阪市 |
学歴・経歴 | 大阪府立北野高校 関西大学 工学部 応用科学科 関西大学大学院 工学研究科 博士課程前記課程応用化学専攻 大阪工業大学 専門職大学院 知的財産研究科 修了 |
卒業論文 |
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資格 | 弁理士(2018年登録20600) 知的財産管理技能士1級(特許専門業務) |
趣味 | 呑み巡りマラソン(美味しいお酒と肴がある場所のマラソン大会に出ること) |
これは自慢だ | 匂いの嗅ぎ分け 昔は、化合物名を匂いで当てられた! タバコを吸わないが煙で銘柄を当てられた(最近は吸わない人が増えたので能力が退化した) |
休日の過ごし方 | 銭湯めぐり |
今のアルティス翻訳事務所・アルティス弁理士事務所ができるまで
看護師に挫折した少女時代
小学校の卒業文集には「人の役に立つ仕事をしたい」と書きました。
具体的には「看護婦さんになりたい」と書いた記憶があります・・・
でも、弟が目の近くを怪我して病院で2針縫ってもらったとき、この夢はあきらめました。
私もその場に立ち会ったのですが、そのときに自分が血が苦手だということに気付いたんです(笑)
英語はキライ!化学はスキ!な高校時代
今は毎日英語と接していますが、実は中学からの英語ギライです。
中学校の授業で関係代名詞が出てきたときに、英語の先生は「〜するところの…」と訳すようにと教えたんです。
でも、それって日本語としてスムーズじゃないですよね。
そこで私は、勝手に2文に分けて訳してみたりしたんです。
すると、「もとの英文が1文なんだから1文で訳しなさい」って怒られてしまって……。
なんだかつまんない・・・
って思うようになり、英語に興味がもてなくなりました。
英語は好きだけど、学校の英語は嫌いというかんじでしょうか。
高校では「きみの英語力でいける大学はないね」と言われたし、大学でも教養課程の英語の先生に「きみは英語が苦手だね」と言われたことがあります(笑)
でも、化学は大好きになりました。
化学の先生が、とにかく化学が大好きという人だったんです。
「オレは化学大好きやねん」という雰囲気を醸し出していました。
とにかく先生がよく授業に小道具を持ってきていましたね。分子模型だったり、ビーカーになにやら怪しげな液体を入れてきたり……。
あの頃、「化学っておもしろい!」という印象を植え付けられたように思います。
見た目は宇宙人みたいなんですが(笑)
この先生の授業を聞くうちに「私も化学をやりたい」と思うようになり、大学は工学部の応用化学科に進みました。
大学は応用化学科に!そこで英語苦手を払拭
大学では、応用化学科にすすみました。
応用化学というのは、「化学を産業に役立てる」ことを追求する学科です。
実際には高価すぎたりして役立てられないことも多々あるのですが、最終目標は、会社で使える化学反応を見つけること、といえると思います。
卒業論文と修士論文は「サマリウム」という金属の使い道についての研究でした。
というのも、当時国から補助金がでるテーマがありまして、サマリウムもそのひとつだったんです(笑)。
例えば、ものすごく高い温度で、ものすごく圧力をかけないと進まない化学反応があったとして、そこに触媒というものを入れると、室温で圧力もかけずに反応が進行したりします。
私はその「サマリウム」を触媒にして、いままでに発表されていない新しい反応をいくつか発見し、それを卒論&修論として発表しました。
ありがたいことに、海外の雑誌にもいくつか投稿して採用されました。
さて、英語です。
大学の研究室では英文をたくさん読みましたが、あれ程キライだった英語なのに、それほど辛かった記憶はありません。
そういえば、一般教養の「英文学」の授業は嫌いでした(笑)
「化学英語」に関する英語の授業は好きでした。
大学3年のときに化学論文をみんなで訳す「外書購読」という授業があったのですが、これはとても面白かったです。
その後、この外書購読を担当していた教授の研究室に入ったのですが、自分で選んだ英語論文について調べて発表する会に参加したり、研究のためにやまほどの論文を読んだり、この頃から英語に対する苦手意識がなくなっていったのだと思います。
さすがに海外に出す論文をみずから英文で書いたときは、教授にほとんど直されましたが……。
化学メーカーで洗剤を開発する研究者に
大学院卒業後は、ある化学メーカーの開発職として就職しました。
そこでは、液体洗剤(台所用、洗濯用)や柔軟剤、カビ取り剤、シャンプー&リンスなどの開発をしていました。
お客様であるメーカーさんなどから「こんな商品が欲しい」という要望を伺い、実際に作ってみて、自分で洗濯をしたり、食器を洗ったりしていました。
実験室で自分の頭を洗ってみて、「うーん、ちょっとぬるつきが強いかな?」みたいなことをやったりして(笑)
たぶん一般的な開発というイメージとはずいぶん違うと思います。
この仕事をしている時は、仕事で翻訳をする機会はまったくありませんでした。
ただ、特許と接する機会はたくさんありました。
自分の部署に関連する特許文献を調査して一覧表を作ったり、自分で特許を出願したりしていました。
翻訳に関していえば、自分が書いた日本語の特許明細書を特許事務所に依頼して英文に翻訳してもらい、そのチェックをすることがあったくらいでした。
特許翻訳の勉強はじめる
化学メーカーでのお仕事は楽しかったのですが、そのころはまだまだ男社会で、女性としての不利を感じることも多かったんです。
ここで一生やってくのは無理だな〜と思い、「一生働ける仕事ってなんだろう」と考えました。
開発に近いところで、女性でも実力があれば評価される世界……。
そう考えたとき「特許」が思い浮かびました。特許翻訳ならば家でもできるらしい。
それなら、これからどれだけ生活が変わっても、仕事を続けられるのではないかと考え、会社勤めをしながら特許翻訳の勉強をしてみることにしました。
特許翻訳の通信講座を受講したり、英文明細書とそれに対応する日本語明細書を読んだりして勉強をしました。
実際に特許翻訳者になった今、この頃の勉強を思い返すと、基本がわかるというレベルでは有意義でしたが、実務で使えるレベルまで引き上げるのはこれだけの勉強では無理だったというのが本音です。
ただ、“導入”としては大切なことだったような気もします。
本当に初歩の初歩がわかったのは、通信講座のおかげです。
実際には、その後、特許事務所に転職して、明細書を数多く書いた経験が、私にとっては翻訳にいちばん役に立っています。
特許事務所へ転職・フリーで特許翻訳を開始
ある程度自信が付いてきたので、化学メーカーを辞め、特許事務所に転職しました。
ここにでは、ひたすら翻訳ばかりをしていました。
化学・バイオの英文明細書を毎日朝から夜中まで訳し続けていたんです。
私の現在の実務能力はほとんどこの特許事務所で学んだものです。
本当にここでの仕事は勉強になったのですが、仕事があまりにも忙しすぎて……
睡眠時間がほとんど取れない状況で体調を崩したため、やむなく別の特許事務所に移りました。
そこでは、電気関係(カーナビ)の明細書(日本語)を書いていました。
そもそも化学系の仕事を増やしたいということで採用されたのですが、思惑が外れ、化学系の仕事が入ってこず、1年後にクビになりました。
ここでの経験が、今のアルティスの事業の原点ですね。
「特許事務所や弁理士事務所って、化学・バイオの仕事を取りたいけど、専門人員を雇うほどじゃないんだ・・・」
「ということは、外部にアウトソースできればちょうど良いはずよね・・・」
あと、最初の特許事務所に入ってから、ちょくちょくフリーで特許翻訳の仕事を請けていました。
化学メーカーの知財部立ち上げに参加しながら、フリーでの特許翻訳も開始
次は・・・特許事務所よりも安定しているかも?
ということで化学メーカーの知的財産部の立ち上げに参画することにしました。
ここでは、明細書を書くというよりは、社内の発明者から話を聞き、発明を完成させたり、特許事務所に説明に行って明細書を書いてもらったりするのが仕事でした。
他には、社内での特許教育も私の仕事でした。
新卒の新入社員に「特許法の基礎」を教えるんです。
具体的には、特許法の概要から始まって、実際の明細書を見ながら、明細書の流れ、どこにポイントが書いてあるか、といったことを説明したり、最終的には実際に「特許請求の範囲」を書いてみたりするという演習をしていました。
この「特許請求の範囲」とは、権利をもらいたい発明の内容を文章で書いたものなのですが、特許独特の書き方があって、なかなか難しいんですよ〜
この仕事の時も、自宅ではフリーランスで特許翻訳を請けおっていました。
会社が朝9時から夕方6時まで。いつも定時に帰れるわけではなく、残業ももちろんありました。
そして、仕事を終えて家に帰ってから深夜まで翻訳をする、という状況でした。
それが結局、2002年から2007年7月に会社を辞めるまでの5年間続きましたが、徐々にフリーランスの仕事のほうが忙しくなってきて、最後の1年間は残業がほとんどない派遣社員として働きました。
フリーランスの特許翻訳者に
いつのまにか、フリーランス翻訳のほうの収入が高くなり、その状態が3年ほど維持できていることに気づいたので、そろそろ会社を辞めても大丈夫かなと思いました。
翻訳セミナーの講師を依頼されるといったこともあり、自分でも少し自信がついてきたというのも大きいかもしれません。
まだ30代なので、もしフリーで稼げないようなら、また派遣に戻ってもいいなぁという気持ちもありましたし、一度思い切って飛び込んでみようと完全フリーの特許翻訳者になりました。
もともと学生の頃から、論文や本を読んで勉強するのが好きでした。
新しい技術を知ることが大好きだったんです。
翻訳という仕事は、お金をもらいながら新しい技術を知ることができるのでとてもわくわくしますし、楽しいと感じていました。
弁理士資格を取得
実は弁理士試験は3回受験しています。
1度目は知財部に在籍していた頃。
職場で「受けるのが当たり前」という雰囲気だったので、申し込みをしました。
しかし、得意な論文試験の勉強しかせず、当然一次試験敗退。
それから、やる気が出ない&誰にも強制されないという情けない理由で、弁理士資格は諦めていました。
2回目は ある時知財交流会で出会った方にすすめられ、大阪工業大学専門職大学院知的財産研究科に在籍することになったのがきっかけでした。
実は、この大学院を修了すると、弁理士試験の一部免除制度を活用できるのです。
ということで、なんとなく弁理士試験の学習を再開。
動機があいまいだったためか、2回目も一次試験で敗退。
でも、大学院はとても楽しかった!
元特許庁審査官の先生や、企業の知財部出身の先生に実務のお話を聞けるとても有意義な時間でした。
そして3回目。
だんだんと化学・バイオ分野の調査なども請け負うようになり、弁理士しかできない業務も打診されるように。
(もちろんちゃんとお断りしておりました)
自分の仕事の幅を拡げる!
というちゃんとした(?)目的ができたため、もう一度真剣にやろう!と勉強を再再開。
予備校に1年間通い、かなり真面目に勉強しました。
「難しい内容をわかりやすく伝える」化学・バイオ×特許翻訳×弁理士 が完成!
仕事における資格による壁を取り除くべく、弁理士資格を取得!
そして、大阪工業大学大学院の弁理士資格対策講座で主に論文試験での文章の書き方を中心に指導することになりました。
大学院での指導をしていて思い出したのですが、私は学生時代勉強が得意ではない子(不登校児など)対象の塾で教えるアルバイトをしていました。
また、文系翻訳者向けに化学を教える授業を担当していたこともあります。
自覚するのは、私の強みは
「難しい内容を分かりやすく伝える」
ってことではないかと。
これって、「翻訳」の意義そのものですよね。
この強みを持って、
わかりやすく伝える「化学・バイオ×特許翻訳×弁理士」として、活動していければと考えています。